琉球/沖縄の問題を琉球/沖縄に押し戻し、本土=ヤマトの責任を見えなくする想像力

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4/8に「沖縄を攻撃目標にしない 国会前ビラ配りアクション」に参加し、琉球/沖縄の運動の団体が作ったリーフレットや今後の活動のチラシ、アクション企画者が作ったビラを配っていたとき、通りがかった人に「あ、沖縄の人? おつかれさま!」と声をかけられました。わたしは琉球/沖縄の人ではなく、本土=ヤマトに生きる側の人間です。わたしは返答に窮してしまいましたが、その人はそのまま「平和憲法を守るための緊急アクション」のステージの方へと向かっていきました。

相手が誰だったのか、どういうつもりでそう言ったのかはわかりません。琉球/沖縄の人が連帯として声をかけてくれた可能性ももちろんあります。それでも、その一言に触れたとき、わたしには「沖縄のことをしている人は沖縄の人なのだろう」という想像力に触れたように感じられました。

最近、本土=ヤマトに生きる側の人間として、あらためて考えていることです。「9条守れ」「憲法変えるな」「平和を守れ」というコールが大きく響く場で、琉球/沖縄のことはしばしば周縁に置かれていないかということです。もちろん、琉球/沖縄の人のスピーチもありましたし、沖縄に触れる声もありました。しかし、全体の重心はやはり別のところにあるように見えました。わたしには、「本土」の平和や護憲が、琉球/沖縄に対する植民地主義の上に成り立っていることを見ないまま語られているように感じます。

今回の一言も、それと無関係ではないように思います。琉球/沖縄への基地押しつけや軍事化、文化や言語への抑圧、本土が長年琉球/沖縄の人びとの訴えを無視してきたこと。そうした本土=ヤマトの側による植民地主義的暴力とその責任を見ないまま、「沖縄のことは沖縄の人がやるものだ」と無意識に思ってしまう。本土=ヤマト側のその想像力が、ふと露出した場面だったのではないでしょうか。

以前、琉球/沖縄の運動によるデモに参加した際に、「沖縄差別をやめろ」という声がわたしに突き刺さりました。そのこともあったからか、今回の経験は、「ある行動を、その人の民族的・『人種』的属性の『しるし』として読むというレイシズムがあるのかもしれない」と感じるものでした。わたしはまだ適切な言葉を探していますが、「連帯実践の民族化/人種化」とでも呼ぶほかない現象があるのかもしれません。ただ、それだけでなく、もっと重いのは、琉球/沖縄の問題が琉球/沖縄の人の問題へと押し戻され、本土=ヤマトの責任が見えなくなることだと思います。

先日、目取真俊さんの講演を聞きました。細部はうろ覚えなので正確な引用は避けますが、本来は自分や家族のために使えたはずの時間を、現実には基地が常にそばにある生活に置かれ、差別や抑圧、自己決定権の侵害、植民地化が続いているからこそ声を上げざるをえない、運動せざるをえない、という趣旨の話だったと受け取りました。これは目取真さんが話された内容の一部ですが、わたしにはそのことが重く残っています。

本土=ヤマトは、琉球/沖縄の人びとに長いあいだ声を上げさせ続け、抗議し続けることを強いてきました。それは貴重な人生の時間を本土=ヤマト側が奪ってきたということです。その事実を見ないまま、本土=ヤマトの人が「沖縄のことは沖縄の人がやっている」と受け取るなら、それ自体が植民地的な責任の外在化だと思います。琉球/沖縄の人びとがすでに上げ続けてきた声を無視してきた、わたしを含む本土=ヤマトの側は、その責任を引き受け、自分たち自身の問題として向き合わなければいけません。

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