重さ、こぼれやすい人、わたしは?

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パレスチナ連帯デモに参加すると本当に重さや緊迫を感じます。特にパレスチナ人主導のものに参加した時や、主催者や参加者が交流のあるパレスチナに住むパレスチナ人の声を代読した時にそれをより感じます。その声の中でわたしたちや世界に対して繰り返し問いかけられていることがあります。沈黙は中立ではない、と。

一方、デモの場から離れると世間の無関心に見える様とのギャップがすさまじいです。日本社会では、パレスチナのことが生活の中心課題として扱われにくいですし、報道も断片的で、しかも植民地主義や占領の構造より「衝突」「治安」「双方」という語りに回収されがちです。無関心に見えるものの中には、本当に関心がない場合だけでなく、見ないで済む位置にいられること、遠いものとして処理できること、自分の生活や責任と接続しないで済むことが含まれているのではないか。つまり、感情の問題というより、不可視化と距離化のシステムが社会の側に組み込まれているのでしょうか。それが、パレスチナ連帯デモやイベントの現場と街や社会の日常との温度差は非常に大きく感じてしまう理由の一つだと思います。ただし、わたし自身もそのシステムから完全に自由ではありません。

もちろんデモの現場で声を上げることだけが意思表示の方法のすべてではないですが、ただやはり、パレスチナ連帯デモに参加すると、その場に身体を運ぶことの重要さも感じます(昨日の投稿でもほぼ同じことを書いたな)。街や社会の「いつも通り」を少しでも破ること、不可視化されているものを可視化すること、無関心が通常であるかのような空気に亀裂を入れることになるから。

忘れてはいけないのは、デモ・アクション参加に限らず、自分の立場を表明すること全般が困難な人たちもいることです。連帯の場もまた、そこにたどり着ける条件がある人を前提にしてしまいがちです。そこからこぼれ落ちる人たちがいます。例えば、人混みが苦手な人や騒々しい場所が苦手な人がいます。困窮によって意思を表明する条件が奪われている人がいます。マイノリティの中には、多くのマジョリティ側の人びとが集う場所に行くこと自体に危険を感じる人がいます。また、都市部や都市圏内に住んでいる人と地方・離島に住む人の条件の違いもあります。地方・離島の条件によって、これらの困難さがより増幅されるのではないかと思います。都市部ではデモやイベントの頻度が高く、加えて人も多く集まるから参加しやすいと感じる人もいるかもしれません。しかし他方で、地方や離島では移動可能圏内にデモやイベントは都市部と比較すると少ないですし、都市部のデモやアクションに参加するのは経済的にも時間的にも負担があります。さらには、近所の目や匿名性の低さといった社会的距離の問題もあります。地方についてSNSでそうした困難を発信している人を見かけることがあります。わたしは貧しいですし、生活の中でAS(D)由来の難しさを感じる瞬間もありますが(一般化しないでね)、それでも都市圏に住んでいますし、日本国籍のヤマト民族のシス・ヘテロ男性という、この社会のマジョリティ側なので、その特権性を忘れないようにしたいです。その場に行ける時には行きたいです(でも、しんどくなる瞬間もあるよね)。