「完璧」ではない運動のために

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VOGUE JAPANの記事「光が、街を照らしている──「戦争反対」の声が集い、示される意思とは」、いい記事だと思いました。デモの場に集う人びとの多様さや、一人ひとりが持ち寄るものの違いを丁寧に描いていて、街頭に立つことへの敷居を下げてくれる文章だと思います。
特に、この部分が印象に残りました。

「戦争に反対する私たちは、ただ『被害』を受けるだけではなく、ときに『加害』の側に立つこともある。だからこそ、『誰が声を上げられているのか』『誰の声が届いていないのか』を常に問い続けなければならない。その線引きはグラデーションでもあり、『正しさ』はときに危険で、『完璧』な運動をつくることは容易ではない。」

「完璧」はやはり難しいですし、わたしたちは間違いながらも、それでも続けています。

ただ、わたしは「正しさ」はときに危険、という箇所には少し引っかかりました。自分たちの正しさを絶対化することは危ういと思うけれど、何が不正義かを曖昧にしてよいわけではないとも思います。この記事はおそらく、「正しさ」の所有・独占・純化の問題を書こうとしているのだと思いますが、加害や抑圧を名指す批判を相対化してしまうことには警戒したいです。

そして「完璧」な運動の難しさは、この記事自身にも当てはまるように思いました。記事は「誰の声が届いていないのか」と問いかけていますが、記事が描く「私たち」は、少なくともわたしには、ほぼ「日本人」として見えます。改憲や軍事的役割の拡大は誰にとっても無関係ではありませんが、とりわけ、日本の植民地主義が現在進行形で及ぼしている影響の下に置かれているアイヌや琉球の人びと、そしてその植民地主義と排外主義の連続の中で他者化されてきた在日コリアンの人びと、在日中国系住民の人びと、移住労働者や難民にとって、より切実な問題だと思います。そうした人びとの存在が、この記事にはほとんど現れていないように思います。「正しさ」を問い直すということは、誰がこの運動の「私たち」に含まれているのか、という問いでもあるはずです。

デモだけが意思表示のすべてではないけれど、でもその場に身体を運ぶことにはやはり代えがたい意味があると思うのです。そのとき、その場や運動からこぼれやすい人びとのことを考えたいです。そして、無理なく、互いを支えながら続けていくことも大事です。

出典

VOGUE JAPAN「光が、街を照らしている──「戦争反対」の声が集い、示される意思とは」(2026年4月4日)
https://www.vogue.co.jp/article/nowar-protest-2026